MEMORY創業者の想い

新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。

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第13回(平成17年7月号)

平成6年春、急に心臓に激痛が走る。脈拍が40以下に下がる、呼吸が止まる…。救急車で運ばれた浜松医療センターでは、人工呼吸が繰返され、一昼夜の絶対安静。そして同年12月9日、2度目の入院。運動で鍛えた身体に合った脈拍、1分間63回に設定されたペースメーカーを埋め込む大手術が行われたのでした。

そろそろ世代交代を…。

少しずつ体力の限りを感じてしまうようになりました。ある日、主任会での席で、主任と私とで言い合いになったんです。お互いに激しい主張をしている最中、また苦しみが…。自分でも元気だけが取り柄だと思っていたのに…。「そろそろ社長の座を譲る時が来たな」と感じましたよ。

茨城での修行を終え、オリコミ会社も10年で一人前にしてくれた。もう譲って大丈夫、と自分に言い聞かせる日が幾度となく訪れていました。寂しさや未練もありましたけどね(笑)。

今、思い起せばお客様にポストを買ってあげたこともありましたよ。木製の赤いポストを約1000個。ポストがない家があるんです。「新聞が濡れてしまうから使って下さい」って。

また、産経新聞の取扱いを始めた頃のこと。夕刊は浜松に届かない。新聞社からの援助も望めない。でもお客様は待っている。結局、新幹線の定期券を購入し、夕刊の配達に合うようにと、毎日毎日東京に新聞を取りに行きました。国鉄からは「新幹線は物を運ぶ乗り物じゃない」と何度も注意を受けて…。そんな日々が2ケ月続き、やっと専属の業者にお願いできるようになりました。

「読者の要望に応える」という現場主義の私のやり方から、「読者の要望の先を見越したサービスを展開する」社長流に会社も染まってきました。良い方向に進んでいく姿は、また柳原の柱が太くなったようで嬉しいです。

浜松の発展を浜松商工会議所に託す。

商工会議所からは、人脈を広げるという大きな財産を頂きました。また、情報文化部会の副会長を任されていた私は、最新の設備を備えた産経新聞社の工場が浦安にできると、研修として皆を誘いました。越中島にスポーツニッポンの印刷工場ができると声を掛け…。

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なぜ私が印刷業界に力を入れたか、といえば浜松は遅れていたからなんです。大手の印刷となると、すべて小田原や名古屋へ流れる。浜松で何万、何十万という大量部数を印刷できる会社がない。オリコミ会社に身を置く私としては、じれったかったですね。大きな仕事はすべて他所にもっていかれて…。これでは浜松は発展しない。

様々な研修を通して、浜松印刷(現中部印刷)がやっと設備投資を始めた。印刷会社も折込会社も新聞店もこれからはもっと頑張れる、と感じました。

社長が26才の時、当時の商工会議所の課長さんから青年部へ入れないか、と誘いを受けました。経営者の二世が集う会。「勉強する機会に」と経験を積んだことが、現在の経営的な考えを持てる成長の原点となれたのではと思っています。

74才から3年間、商工会議所の議員に推薦されました。無事任務を終え、浜松の商業の発展に少しでも貢献できたと思って頂けたのなら、嬉しいですね。

私の思い出の人。

毎日新聞販売局次長で、茨城で社長がお世話になった西村さんへの恩は言葉では言い尽くせません。

創業当初からの担当員として常に私をサポートしてくれた人。発証表や店の売り上げ、何でも彼には見せました。同じ年ながら全信頼を寄せていましたよ。お酒が強く、飲んで明るくなる人。うなぎやドジョウといった長いものが嫌いで(笑)。「駅前の読売なんかに負けないくらいの店になれよ」。私を励ます言葉がいつもの口癖。「信頼される人になって、この地域をまとめてやれよ」。正義感の強い西村さんにはどれほど助けられたことでしょう。

そして、私を、浜松を心配してくれたのが江崎新聞店社長の江崎鐵郎さん。

静岡県毎日会会長であった彼は、中日東海本社が浜松にできると決まった時、当時の中日本社社長の加藤巳一郎さんに直接掛け合ってくれた人。浜松に新聞社が出来ても、「題字は変えないこと(浜松新聞と変える可能性もあった)」「定価は静岡新聞以下にしないこと(安い購読料を設定するという動きが見えた)」と。「中日の思うままに行動を起こされたら業界は大混乱してしまう」と語る姿には、この上ない思いやりを頂きました。他にも、多くの方との巡り会いがあり、色々な形で助けて頂きました。

最後に…。

県西部での扱い部数はお陰様で第一位へと成長しました。今日があるのも、各新聞社の担当員の皆様のお力添えと感謝の気持ちでいっぱいです。。この先、新聞業界は、合併、共同販売、と形は変わるかもしれません。

いずれどんな時代が来ようとも『前進あるのみ』。社員の皆さんも、そして社長も、発展し続けて欲しいと願っています。