MEMORY創業者の想い

新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。

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第7回(平成16年11月号)

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2004年産経新聞社より感謝状

11月1日、産経新聞東京本社より感謝状を贈呈されました。

36年間に渡る普及発展の努力と功績をたたえ、産経新聞東京本社より招待を受けた昭会長。

江口峻本社販売局長から「これほどまで新聞店を大きく育てた、その成功の秘訣は何だったんですか?」と問われた時、「言葉では言い尽くせない苦労がどれ程あったことか…」。あらためて、自身を振返える機会にもなったそうです。

中日新聞の取り扱いを直談判した時があった。

今から25年位前のことになりますが、中日新聞の取り扱いができないかと考えたこともあるんですよ。

毎日新聞中部本社に行くついでに、中日新聞社に顔を出していたので人脈もあった。すると、本社の販売局長から「会って話をしよう」と。

結論は「浜松全域の中日新聞の取り扱いを柳原新聞店にお願いする。その代わり…」。出された条件は「静岡新聞のすべての取り引きを辞めること」。この瞬間に、中日新聞への思いを一切断ち切りました。

県下一の『正常販売』を守り抜く地区となりました。

私が中日新聞社に出向くのは、他の新聞店主から見れば異様なことだったと思います。

ライバルであり敵地ですからね。どこの新聞店もそんな交流は行っていませんよ。でも、同業者同士の付き合いは絶対必要ですし、新聞店を続けていく上で共通の問題は必ず出てくる。皆で話し合わなくてはいけない、と私は考えたのです。

次第に、毎日、中日、読売、朝日の代表店主会を開こうと声を掛け合い、「物をあげない」「定価で販売する」等、決め事を確認しあって結束していきました。

県内でも、西部は新聞店が入り乱れ、まとまりのない地区と思われていたようですが、実は正常販売の一番守られていた自慢の地域だったんですよ。

チラシと新聞、数はなんとバラバラでした。

新聞販売店の貴重な収入源の一つに折込みチラシがあります。当時のチラシは、印刷会社から直接各新聞店に届けられるのです。その枚数はすべてが「どんぶり勘定」。浜松地区に届くほとんどは中日新聞へ回るものばかりで…。新聞数とチラシ数が合っていないんです。「こんな無駄をしてはいけない」と思いましたね。

そこで、浜松商工会議所の印刷部会を通じて、チラシを出す側の大手スーパーや百貨店、印刷会社・販売店等関係者に、チラシの印刷部数や新聞販売店の新聞数の現状を公表しました。わかりにくい折込をわかりやすくしようと思ったのです。それが、広告主への配慮でもあるわけで。「東海オリコミ」設立のきっかけにもなりました。