MEMORY創業者の想い

新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。

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第11回(平成17年5月号)

8支店の運営に、東海オリコミ、ザ・ニュース浜松と展開していた頃の苦い思い出として「ミッド浜松進出」や「事業税の課税問題」が思い起されます。

東京からやってきた「ミッド」。

昭和62年、東京に「ミッド」という会社が設立されました。 これは、新聞店の主な収入源となる新聞折込みに対抗した「チラシ」や「ダイレクトメール」の宅配という業種。全国展開をした中で、静岡県内では唯一浜松への進出が決定しました。

単に東京の会社というだけなら大した不安もないですが、地元の大企業である『ヤマハ』が参入し「事業開発部ミッド」を立ち上げたんです。16万世帯をカバーする、と謳っている。これでは、チラシの大半がミッドに流れる可能性さえでてくる。脅威でしたね。

毎週火、金曜日、各家庭にお届けするという働き手のターゲットは女性。早速動き出した「ミッドレディ募集」の説明会にも潜入しました。ヤマハには自分の顔は知られていないと察しまして(笑)。多くの女性が集まっていましたよ。

かつて折込みを利用していたヤマハの下請け会社から音楽関係、銀行、タクシー会社の広告はすべてミッドを利用し始めました。

対抗は全新聞店で団結した「新聞ネットワークサービス」。

昭和62年11月18日にミッドが立ち上がると、その2ケ月後に県西部全系統の新聞店組織「新聞ネットワークサービス(NNS)」を誕生させました。 連日、柳原新聞店の2階が会議室となり、全販売店が団結。ミッド以上のサービスを目指し、DMから商品サンプル、クーポン広告も新聞店で取り扱おうと決めました。そんな中、ヤマハは3年余りでミッドから撤退。

結局、単なるポスティングに広告の価値は高められなかった。広告というものは、新聞に挿んであるからこそお茶の間に運ばれて家族皆が目を通すんです。折込み業は新聞店以外には「無理」との結論がでましたね。

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当時のNNSのパンフレット

あらためて振返っても凄いこと。

それは「系統を越える」という全国初の組織でした。 「NNS」は、我が社(一貴氏)が提案したものでした。オリコミ会社を併設し、宅配業のノウハウを熟知していたからこそ掲げられた対抗策。中日を含む全系統が賛同し県西部全79店が加盟。全国的にも画期的な組織と注目されましたよ。

一紙のみを扱う「専売店」で成る他県では、同業者はすべてを敵と見なし、他店との情報の共有化など決して取ろうとしない。それが新聞販売業の世界だったんです。

にも拘らず、私たちが全店で成し遂げたミッド対策は、県西部販売店の偉大なる団結力を世間に知らしめた、そんな時代でした(笑)。

「事業税」も免除される程、社会に貢献する職業と認められていました。

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ちょうど同じ頃、事業税問題も起こりました。事業を行うからには、当然地方税である「事業税」を納める義務があります。でも、新聞販売業は免除されていたんですよ。

時代を溯れば、明治29年から営業税(事業税)は始まっていました。が、明治44年「新聞販売業は決して利益を追求して商売をしているのではない」と判断され、廃止されていたのです。

新聞販売店は、ほとんど年中無休で朝・夕に配達している、一般家庭の生活パターンに応じて一定時刻までに確実に届ける使命を果たしている、購読料は独占禁止法で規定されており販売店が任意に利益の追求に走ることはできない、営業範囲は新聞社との契約で限定された区域の中のみ…様々な理由で、公益性が認められていたんです。(病院も「人の命を救う職業」と事業税は掛かりませんでした)。

そんな中、次第に景品を使い派手に拡張に動き出した新聞の営業に「このやり方でいくのなら課税すべき」と自治省で議題に上がり、約10年間もの討議の結果、平成6年事業税課税が決定しました。

今、静岡県内では景品営業は禁止され、正々堂々とお客様と接する営業に努めています。私たちのやり方が全国で守られることができていたのなら「事業税」は廃止のまま、公益性の高い職業と認められ続けたのかな、と思ったりもしますよね。