MEMORY創業者の想い

新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。

創業者の想いのイメージ

第3回(平成16年6月号)

営業強化になぜ集団拡張だったのでしょうか。

貨物に乗せられて浜松駅に届く新聞。他店は『六間の坂を上り下りし、配達に時間がかかる』と判断していた地域を営業の対象外とみていた。それが高台地区だったんですよ。そんな盲点である浜松の北部方面を中心に顧客を広げる作戦を続けました。

いつも考えたことは「従業員の生活をよくしてあげたい」、「仕事は楽しくなければいけない」。その為にも、働き安い職場にする手段はないだろうか…。そんな時、「集団拡張」という「手」を思い付いたんです。

「2人なら、知らない家のドアを開ける勇気が出るだろう」「3人なら、お客さんと堂々と話ができるはずだ」と。

毎日が「営業の日」でした。

毎日、夜の9時まで営業をしよう、と声を掛け合いました。

ある時、私が耳にしたのが「この新聞店の人はいい人だから、新聞を取ってやんなよ」。お客様が知り合いの人に掛けてくれた言葉。「あ~、新聞を売るだけではないんだ。人間そのものの良さを売り物にしなくてはいけない」と。

以来、毎月会議を開き社員教育に力を入れました。「拡張員」、つまり営業専任を置く店もありましたが、それではお客様と良い関係は保てない。配達員自らがお客様を大切にしなくてはいけない、と私は一度も専任を置いたりはしませんでした。

支店第1号、北部店。

2年目を迎えた昭和37年4月、支店の第1号となる「北部店」(現在の萩丘店)が1000部弱の顧客を抱えて開店しました。「北部店が成功した理由は、主任として迎えた杉浦儀市君でした」。

今喜多新聞店から引き継いで働く従業員に、新たに加わっ たのが故杉浦儀市さん。遠縁から「彼を育ててくれないか」との言葉とともに紹介され、私自身が採用した初の従業員です。威勢がよく、度胸のいい青年。八方破りな行動も目立ちましたが「すべての責任は俺が取る。好きなように仕事をしてみろ」と彼を信頼しました。すると、恐いものなしの兵の上、「誰にも負けたくない」という勝ち気な性格。しかも、人との接し方が上手く、お客様を決して怒らせない人の良さ。すべてが営業向きで、抜群な成績を残してくれました。

「北部店は彼に任せよう」。親分肌の彼に、新たに8名の従業員を付けました。どんな仕事も決して嫌とは言わず「俺は何でもやるよ。おやじには世話になったから」と笑う彼。

集団拡張の先頭にはいつも「儀市」がいた。「この店を大きくしてやろうじゃないか」。そんな姿が見えていました。

計算し尽した、店舗の拡大。

営業の弱い地域には店の全員で出向く。そんな「集団拡張」は、団結する意識を作り上げました。2支店を競合させ、個人を、そして店を表彰する。仕事が楽しいと活気づく中で、私も目標を掲げました。当時6支店と栄える読売販売店並みに『店舗数を増やしたい』と。

昭会長の手元にある色褪せた地図。支店を中心に、半径5・、10・…と幾重にも円が描かれています。これは、一支店が管理可能と推測される範囲と住宅数、それに対する配達距離、そして仕事の効率、すべてを見計らった縮図なのです。

そんな計算し尽くされた中で発展していく「北部店」。地図を睨み、続く3番目の支店は東方面、「野口」と決めました。

創業者の想いイメージ
エリア内に付けられたコンパス線も色あせて