MEMORY創業者の想い

新聞の世界に足を踏み入れ、昭和35年3月3日に柳原新聞店を創業した柳原昭(故人)。平成16年4月より平成17年7月に掛けてのインタビュー、「業界50年の歴史」。思い出のインタビューを掲載しております。

創業者の想いのイメージ

第10回(平成17年2月号)

平成5年から7年に掛けての2年間は「静岡県販売連合会」の理事長としての任務を務めました。新聞販売業を、「企業」と認められるための転換期といってもいいのではないでしょうか。

労働基準監督署から徹底的に新聞販売業への調査が始まりました。

静岡県販売連合会には、中日新聞店以外の県内全ての販売店、約150店が加盟していました。販売店に発生する様々な問題を解決していきましたよ。 私が理事長職に就いた当時は、新聞配達業の労働条件はまだまだ確立していない状態。朝刊だけを配達する人や夕刊だけの人、集金屋さん、営業専門の拡張員、そして中学生のアルバイト…。

時間一つを取っても、時間外労働が当たり前。他業種と比べてみても、別世界でしたよね。

労働条件を整えるチャンス。 早朝や深夜の労働は当然避けられない。

月1回の休刊日以外の休日もない、という中、「休日を作ること」「中学生の場合は学業と労働を合わせて6時間以内にすること」等、労働基準監督署から県内の各新聞店へ調査と名打った指導が徹底的に行われました。

現在の新聞販売業の労働条件の基盤は、この頃にできあがったというわけですよね。

ビー券、鍋釜合戦の氾濫。

他県では今も行われている景品販売ですが、昭和30年代までは例外なく静岡県でも行っていましたよ。

「ご挨拶」と差し出すタオルにビール券を挿んだ『ビー券合戦』、中華鍋やフライパンを自転車の荷台に積んで営業に歩く『鍋釜合戦』…。物が豊かになると、お客さまからは「鍋は入らないから新聞代をまけろ」との声も出て。

そんな時、公正取引委員会から警告が入りました。「景品販売の営業はやめろ」「景品を使うのなら、その分新聞の価格を下げろ」と。 でも、もし新聞代が自由価格になってしまったら…。業界はバラバラになってしまうだろうし、販売店に将来は全く見えない。

連合会で話合い、景品を使わないで「定価販売」を守り抜こう、と皆の意を固めましたね。

全国でも珍しい「静岡新聞社」側の方針は、結果的に大成功。

景品販売廃止が、どうして静岡県だけができたのか。それ は静岡新聞社が「大店主義」という経営方針を掲げたからなんですよ。

販売店の持つ販売エリアは、私たちが他の店主と話し合ったところでどうすることも出来ない、新聞社から指定されたものなんです。

他県のほとんどの新聞社が打ち出す方針は、エリアを小さくしたものでした。販売店の規模を制限し、小さな店を幾つも作ることによって「販売店に権力を持たせない」という考えでした。これでは、景品を使ってでもお客さまを確保しないと経営そのものが成り立たない。

そんな中、特別な販売形態を取った静岡新聞社には感謝しています。当社のように大きな店として経営ができるということは、他県では見られない、とても珍しいことなんですよ。

「新聞価格を変えない」「景品は出さない」という約束事もこの「大店主義」があったからこそ。日本新聞販売協会の会合に出ても「静岡県は羨ましい地域だ」と非常に褒められました(笑)。